Search Icons

Site Search

Search within product

第508号 2000(H12).06発行

Click here for PDF version 第508号 2000(H12).06発行

 

 

北海道における被覆肥料入り
BB銘柄の普及について

ホクレン農業協同組合連合会
肥料農薬部 技術普及課
技師 長屋 貞夫

Introduction

 日本の食料基地と称される北海道の農業において,耕作面積の大規模化と機械化が進み,畑作的野菜の生産が増加している。また,農業者の高齢化にともない,施肥労力の軽減も重要な課題となりつつある。

 今回は野菜作を中心に,被覆肥料入りBB銘柄による施肥の省力化に向けた取り組みについて紹介する。

2.これまでの試験経過

(1)施肥合理化試験の実施

 道内各地にて組織されている施肥防徐合理化推進協議会では,これまで約20年間にわたって新しい資材や肥料・農薬の合理的な施用方法について圃場試験を行い普及に移している。そのうち,野菜・花きに関する施肥試験としてロング肥料を平成2年頃から取り組んでいる(表-1)。

(2)溶出パターン分析の実施

 ホクレン農業総合研究所では平成7年より,被覆肥料・緩効性肥料の溶出パターンを把握するため土中埋め込み試験,及び恒温培養試験を行なってきた(表-2)。

 試験のポイントは,
1)5~10℃という低温条件においても安定的に溶出すること(北海道のような冷涼地に適応すること)
2)栽培する作物の養分吸収パターンに合致する=必要な時期に溶出し収穫後にまで持ち越さないこと
 を確認するものである。

 これらの試験の中で,
①野菜作に好ましい硝酸態窒素とアンモニア態窒素の被覆肥料
②初期生育を重視する寒冷地に不要な被覆リン酸を含まない
③各作物の施肥体系に合わせて配合を容易にするため,被覆加里を含まない
 という理由でロング2601が,BB原料として選定された。

 溶出パターン分析でも,低温時の溶出も直線的で安定しており,本道の気象環境に適していることが認められた(図-1,2)。

(3)ロング2601入りBB肥料の設定

 様々な作物に対するロングの施肥合理化試験は,当初は追肥労力軽減を目的に行なわれていたが,平成8年頃から,ロング2601を原料として配合したBB銘柄を設定し,コスト低減の観点からも積極的に取り組んできた。

 ロング入りBBについては,これまで各地で実施された施肥合理化試験を踏まえてロング2601-70タイプを配合した5銘柄を上市した(表-3)。

3.野菜の栽培体系とロングの溶出タイプ

(1)道内の野菜栽培体系

 道内各地における主な露地野菜の作型を「北海道野菜地図その22」1)より抜粋すると表-4のとおりである。

image

 作物栽培の現場では,窒素の吸収特性を考慮して生育経過を見ながら追肥のタイミングを合わせている。

(2)野菜におけるロングに関する道の施肥指針

 「北海道土壌診断基準と施肥対応」2)によると,野菜施肥では多量の降雨(50mm以上)により肥料が流亡するおそれがあるので,基肥にはロングの使用が推奨されている。

 野菜施肥は,環境保全の観点から降雨による硝酸態窒素の流亡を出来るかぎり抑制することを目的に,基肥にはロングの作条施肥が推奨されている。その場合の目安は表-5のとおりである。

image

 もちろん,気温,栽培法により適応タイプは異なってくることも指摘されている。例えば,洞爺湖周辺のセルリー栽培地区では,40タイプより70タイプのロングが有効と考えられ,実際の施肥事例としてもロングの70タイプが中心となっている・・・などである。

 また,ねぎ,はくさい,キャベツ,ながいも,すいか,いちごにおいて,ロングを用いて窒素の追肥を省略する場合,加里も緩効性肥料を用いて基肥と追肥の合量を基肥として施用することが推奨されている。

 ロング40タイプが適する場面については次の2つのパターンがあるとされている。
a)スイートコーン,たまねぎにおいて,窒素全量をロングの形態で配合するパターン
b)はくさい,キャベツ,レタス,セルリーにおいて,窒素の5~7割をロングの形態で配合するパターン

 ただし,a)の作物では70タイプを3~7割配合したBB銘柄も適するとされている。資材コストと汎用性を考慮すると,既に表-3のBB銘柄でも十分このパターンに適合すると考えられる。

 残ったb)の作物については,今後現地試験等で検討を進める必要がある。

(3)野菜別に見たロングの適応性について

 次に表-5を基本とし,栽培期間の長短や追肥時期から,ロングの溶出タイプと配合比率を表-6の右に示す。

 この表を作成するにあたって,地域的な栽培体系の違いは考慮しなかったが,実際には表-4にある作型別の播種期・定植期から収穫期のずれを各現場において考慮にいれ,適応性を考える必要がある。

(4)積算気温算出による溶出割合の予測

 これまでの溶出分析結果から,ロング2601は25℃土中で直線的に80%まで溶出する日数が,40タイプは40日,70タイプが70日であるとされている。作土中の地温変化は一般的に,気温よりやや遅れながらも平行して推移する。そこで,溶出タイプの違いに基づく適応性を検討する目安として,地温データより入手が易しいアメダス気温データから各地における平均気温の単純積算温度を算出して利用する。

 つまり80%溶出に到達する日は,40タイプでは40日×25℃=1000℃,70タイプでは70日×25℃=1750℃になる日と仮定する。各地の作付け日から単純積算温度が1000℃および1750℃となる月日を,各タイプの80%溶出到達日として計算することができる。

 各地の作型ごとに,施肥日から見て80%溶出到達日が少なくとも生育期間の中に入っていることや,後半の溶出が品質低下につながらないように,タイプ選択における参考となる。

 例えば,旭川で6月11日施肥してキャベツを定植する場合,収穫は〔表-4〕より8月15日頃とすると,70タイプでは計算上80%溶出到達日が9月8日(89日目)となり,吸い残しが多すぎる。

 40タイプであれば,8月2日(52日目)で肥料が切れるので過熟を防ぐ意味からも,40タイプが適する可能性が高いだろう。

4.ロング入りBB肥料の発展方向

 北海道では,ロング2601入りBB銘柄について70タイプを中心に現地試験が行なわれてきた。

 今後は,「北海道土壌診断基準と施肥対応」に基づいて,40タイプや100タイプのロング2601を配合した銘柄を,各作物別の実用化に向けて検討していく必要があると考えている。

 特に,はくさい,キャベツ,レタスにおいて,ロング2601-40タイプを窒素の5~7割配合する検討を進める。

 長期的には,北海道として推進しているクリーン農業の一手法として,2~3割の減肥を考慮した作条施肥等施肥法の改良を作物別に応用していくことや,加里の緩効性肥料についても検討を進める必要があると考える。

works cited

1)「北海道野菜地図その22」北農中央会,ホクレン,平成11年1月発行

2)「北海道土壌診断基準と施肥対応」北海道農政部,道立農試,北農試,平成11年10月発行

 

 

「南郷トマト」の歩み

福島県JA会津みなみ 西部営農センター
近藤 一夫

<地域の概要>

 福島県の西南に位置し,周囲を越後山脈の急峻な山々に囲まれ,その間を伊南川とその支流が流れこれらの川沿いの標高370m~870mに耕地及び集落が形成されている。

 年間平均気温は9.2℃の内陸山間型の気候で気温の日較差が大きい。年間降水量は1760mmと比較的多く,霜は10月中旬から5月中旬にかけて,積雪期間は11月下旬から4月中旬までの5か月におよび平均積雪量196cmの日本でも有数の豪雪地帯である。

<トマト栽培の歴史>

 南郷トマトは昭和37年に南郷村の14戸の農家によって「トマト研究会」を結成し,50a栽培されたのが始まりで,当時は栽培技術においても暗中模索であり,また,消費地における消費量も少なく,価格が安く生産者が自ら地場売りに歩くという状況であった。昭和40年には「南郷トマト栽培組合」が組織され,翌41年には隣接する只見町や伊南村にも栽培が普及するとともに,水田利用による,”トマト-水稲-トマト”の輪作体系の確率により連作障害が克服されたことなどから,面積も拡大され収量も増加した。

 昭和49年に町村を越えた,「南郷トマト生産組合」にと組織が発展的再編され,共販体制の強化の基に栽培13年目にして,販売高1億円が達成された。

 昭和50年には,当時の南郷農協に共同選果場が設置され,この利用により出荷労力が大幅に軽減されたことを機に,栽培農家と面積は着実に増加し,昭和51年には野菜指定産地として国の指定を受け,昭和53年には当時の只見町農協にも選果場が設置されたため,栽培農家と面積は更に伸びていくこととなった。

 昭和54年には栽培者数223名,面積32haと当産地においては最大規模となった。しかし,価格は暴落し,生産者には打撃を受けた年となり,これに栽培者の高齢化,担い手不足等,農村構造の変化要因が加わり,次年度より栽培者,面積とも減少の傾向となった。しかしながら今後の品質向上対策として簡易雨よけ栽培(アンブレラ方式)に取り組んだ年でもあった。

 昭和62年においては,消費者ニーズの変化等に伴い,栽培以来5回目の品種更新を行い完熟系の「桃太郎」へと全面的に栽培を移行し品質の向上を図った。これと同時に安定生産・出荷のため,パイプハウス導入による施設化を翌63年度に渡り実施した。

 「桃太郎」導入は,市場性に適応し高価格販売へとつながり,以降平成2年度には9億円を突破し,更に平成6年度には念願の「南郷トマト」販売高10億円突破となった。しかし,実績の伸びとともに生産サイドでは,青枯病等の土壌病害が大きな問題となっていた。そこで試作段階から一部導入されていた「桃太郎8」に平成6年全面積切り替えとなった。

 「桃太郎8」導入当初は,品種の特性的に「桃太郎」に比べて小玉傾向ということで小玉対策等を行ったが,比較的に当産地においては問題とならなかった。

 以上のような事柄を経て,現況(平成11年度実績),南郷トマト組合員数130戸,栽培面積(ハウス実面積)28ha,販売額8億2千7万円となっている。

<トマト栽培の概要>

1.育苗

 現在,JAで発芽をさせ,それをトマト栽培者より選出した育苗担当者12名に配布し,12カ所に育苗床を設置し,発芽後から本葉2枚程度の移植ステージまでは共同育苗をおこなっている。以後の管理については各トマト農家で行っている,品種については,全面積「桃太郎8」で,約60万本を育苗し,そのうち約6割が接木で,その目的としては,青枯れ病対策が主である。

 育苗は全量プラグトレーを使用しているので,移植時の活着がスムーズで育苗前半の管理が容易になった。但し,管理面では,12カ所の離れた場所での管理となってしまうので,いかにその離れた場所において,穂木と台木の育成ステージを合わせ,均一な苗に育てるかが重要であり,今後の課題ともなっている。

 さらに,個人への配布後の育苗期間において,今までは育苗後半に極端に肥切れを起こしてしまい定植時の活着が悪くなる場合が多かったため,個人に配布された本葉2枚程度の苗は,被覆肥料を床土に施用し後半の育苗に備えて,極端な肥切れを回避するようにしている。この被覆肥料(チッソ旭製)は使用方法や性質を熟知すれば合理的なのだがまだそこまで至っていないのが現状であるので,メーカー担当者と適正な使用法を良く検討してゆく必要がある。

2.定植

 裁植本数は坪6~7本で,果実への採光性や作業性を考え,通路・条間は広めに取り,支立て方法は,主枝直立1本支立てとしている。

 特に定植時に気をつけているのは,圃場の水分状態である。土壌条件によってもその最適な状態が違うのでそれぞれの条件にあわせ水分を適量確保しておくよう心掛けている。これができていないと活着以後に根をどうこうということが難しくなってくる。

 「桃太郎8」は,「桃太郎」とは細かい点で性格的に異なる点が多いので定植のステージやその後活着までの水管理等を,品種に合わせて行う必要があるので,今後もさらに良い方向ヘ向くよう検討が必要である。

3.施肥

 基肥のチッソの基準量は10a当たり20kg前後で,主体は被覆複合肥料(14-12-14)の100日タイプであるが,施肥量については土壌分析を行い,それに基づき施用している。

 追肥は,基本的には第3花房開花始め頃から行い,以降草勢を見ながら所定間隔で行う。但し,1回目の追肥については,ためし潅水をして基肥の効き具合を見てから行うようにしている。

 現在,当地区も潅水方法が散水方式から点滴方式ヘ変わりつつあるが,基肥の被覆肥料との連携がうまくとれれば,均一施肥且つ省力施肥さらには低コスト施肥という一石三鳥への取り組みとしてその実現を目指している。

4.一般管理

 水管理については,温度,日照に合わせて生育をコントロールしながら出来るだけ土壌水分に極端な変化を与えないよう,少量多回数を心掛けている。

 現在,潅水の様式も多様化しているため,設置方法や潅水方法は,圃場の立地条件や水利条件に合わせて選択する必要がある。

 交配については,栽培農家100%がマルハナバチを利用し,自然交配を行っている。利用によるメリットとしては,ホルモン処理の労力削減や品質向上があげられる。後者はホルモン処理に要する時間を管理面に回せることで実現する。もちろんデメリットもあるが,当産地の場合は,メリットの方が大きいため6年前より継続利用という状態である。

 現在,7月中旬以降の高温時にマルハナバチの飛行状態が著しく悪化し,着果不良等が発生しその対応に苦しんでいるが,使用者のマルハナバチに関する知識の向上や工夫,各メーカーの企業努力等により少しずつ改善されている。

<出荷・販売>

 平成5年度に第3次の選果場整備として,ロボット箱詰め,カラーセンサー付き選果機が導入されたことにより品質の向上,規格の統ーが図られた。

 更には簡易予冷庫の設置等で,品質保持が図られた。平行して市場やJAを含む各関係機関との連携を深めるためトマト農家全戸にFAXを導入し,その通信網を利用し綿密な情報交換の基に有利取売が検討されている。

 出荷は,7月中旬から10月末までの時期で,主に京浜市場ヘ出荷されている。

<今後に向けて>

 品種の特性を十分理解し,その持ち味を最大限に引き出す栽培技術の確立,また,多種多様に進化する管理技術等に柔軟に対応し,適正に取り入る形を持つこと。

 平成12年には,パイプハウス雨除け栽培の完全実施(今まではアンブレラ方式の簡易雨除け栽培が2割程度残っていた)による品質の向上に取り組む。

 上記に上げたような取り組みあるいはその姿勢を今後も継続し機動力のある産地づくりをし,販売面においては輸入を含める産地間競争の激化等を踏まえ販売体制の強化・調整を行い,消費者ニーズに答え,常に求められるような産地づくりを積極的且つ迅速に進めていくことがこれからの「南郷トマト」に必要である。

 

 

越中富山売薬と農業
-<下>農業指導員として地域貢献-

作家 遠藤 和子

 薬売りたちは,人びとの健康を守るために山間僻地や離れ小島をもいとわず,薬を届けた。

 それとともに,病いに対する悩みや,暮らしのなかでの相談に乗ってアドバイスをしたり,励ましたりした。浪曲や淨瑠璃,小謡などを語って楽しませることも多かった。

 いまも子どものころに,薬売りから貰った紙風船で遊んだことを懐しむ人は多いが,1年振りに訪ねる挨拶代わりに,歌舞伎芝居の絵紙(売薬版画)とともに配ったものである。それはまた,商いを続けさせていただいている感謝の気持ちをあらわした進物でもあった。

 こうした薬売りたちの行為が,娯楽の少なかった時代の農山漁村の人たちを,どれほど楽しませ,慰めたか知れない。

 このように,薬による「治し」だけでなく,「癒し」をも心がけていたのである。

 しかしながら,なんといっても頼りにされ,尊敬されたのは,顧客や地域のために農業指導を行ったことである。

1.北海道の開拓を支える

 越中富山売薬が北海道に足を踏み入れたのは享保(1716~35)ごろであるが,本格的な商いは明治初年,開拓使が置かれて屯田兵や士族集団,地方農民団体など,開拓移民の入植に伴い,進出した。また,終戦後北方領土や,中国などの大陸からの引き揚げ者が入植すると,その数は急増した。

 しかし,冷害による凶作続きに,不漁や豊漁貧乏にあえぐ顧客が相手であるだけに,集金不能が多かった。しかも,交通費や運送費は内地の3倍で,宿泊料も内地の2倍はかかった。このため,宿泊費はおろか,家に戻る旅費にも困り,内地からの送金を待って戻る者もいたという。

 それでも彼らは,広大な原野に点在する開拓小屋や,沿岸地域の番屋(漁業小屋)を回っては薬を届けた。

 開拓民にとって,牛馬は耕作の助力者であった。また,生活必需品をはじめとして,500米も離れている隣家ヘ行くにも,病人を病院に運ぶにしても,馬車がなければ用を足すことができなかった。それほど牛馬は,開拓民の仕事と暮らしに欠かせぬ命綱であった。

 そのかけがえのない牛馬が病を起こせば,富山の薬が頼りになる。地獄で仏にあうような思いの尊く,ありがたい薬であった。それだけでなく,耕作のときに気付薬「神薬」を飲ませる。とたんに牛馬は元気づき,仕事の能率があがった。

 牛馬は体が大きいので,薬の量は人間の3,4倍は必要である。このため薬売りたちは,薬の数を増やし,サイダー瓶ほどの大きさの瓶に入った神薬を何本も背負い,あえぎながら開拓民の許に届けた。

 また戦後,北海道では酪農や養豚業が盛んとなったが,各地で,薬売りと農家の人とが額を寄せ合い,いろんな方法を試みながら牛や豚の治療に励む姿が見受けられたという。

 このほかにも,薬売りたちは薬を届けるとき,他の土地での開拓状況を知らせた。それを聞いた顧客は,自分よりも苦労しているのに,がんばり抜いている開拓者のことを知って奮起する。農業技術にも示唆を受けて導入することも多かった。

 「新聞やテレビもない時代の情報屋さん。開拓者を元気づけた励まし屋さん。楽しませて心に明かりをともしてくれた文化屋さんだった。」
 こういって感謝する顧客が多い。

 一方,薬売りたちの間で言い慣らわされていたのが
 「貸しても,後を追わず」
 「あるとき払いの催促なし」

 開拓民や,牛馬の命を守る使者として「菩薩行」を行っていた薬売りならではの言葉である。

2.農業における地域貢献

 農民としての兼業売薬であるだけに,同業の顧客の仕事に関心がある。共通話題による親しみも加わり,農業への助力を惜しまなかった。

 例えば,地力の弱い地域や,水温の低い地域,稲の植え付けから排水状態,肥料の与え方に温床づくりの奨励に至るまで,顧客の相談に乗り,アドバイスもした。

 ことに,種モミやレンゲの花種を配り,斡旋した薬売りは数知れない。

 江戸時代から薬売りたちは,重い行李を背負いながら種モミの入った袋を下げて旅先に向かった。そして,反当たり収穫の少ない地域には多収穫の品種の種モミを,稈が長くて倒伏する地域には,稈が短くて実いりの多い品種の種モミをと,それぞれの土地に適した種モミを配った。

 単に届けるだけでなく,種モミの色や粒の形,重さなどを説明した後
 「分蘖の多い品種なので,1尺5寸角に植えるように」
 「晩生品種だが,鹿児島では早生同様に扱ってください」
 などと,肥料の与え方から出穂期における雀の被害を少なくする方法に至るまで,こと細かく具体的に指示した。何しろ,顧客が「稲の穂をつかんで実の状態を察知し,『何々の肥料が足らん』と指摘された。」
 と語るほど,専門家はだしの農業指導員であった。

 レンゲについては「日本農業発達史」に,富山の薬売りが秋田や山形県などに運搬して,斡旋したことが紹介されている。誰が導入し普及させたのかは明らかでない。

 おそらく,薬売りが一日の仕事を終えて泊まった定宿での四方山話に,同業者だけに農業経営に花が咲いた。たまたまレンゲの肥料効果を説いたことから,持参することになったのではなかろうか。

 このほかにも,鹿児島県内に「田植え定木」を導入して,田植えの能率化を推進した薬売り。山形県米沢市には,明治期,置賜地方に馬耕機を導入して普及させた薬売りの顕彰碑が建っている。

3.農業先進県・富山

 薬売りたちが各地で,農業による地域貢献ができたのは,富山県が農業先進県であったことも影響している。

 江戸時代,越中国は加賀藩と支藩・富山藩とに分割されていた。越中一国としてまとまったのは明治16年(1883)富山県と命名された。このときからの県民の働きは目覚ましいものがある。

 すなわち,明治3年(1870)の米生産高は約86万石であった。それが明治17年(1884)には127万石に,明治37年(1904)には170万余石と2倍もの収穫高を上げ,わが国屈指の米の移出県となった。

 これは置県後,農業水利改良事業や区画整理,稲植え技術の改善,それぞれの地域に適した改良犁の開発による馬耕機の普及など,農業の生産開発に力を注いだためである。

 馬耕機は江戸時代から採用されていたものの,ごく一部の豪農に限られていた。それが明治期に入り,福岡県の先進農法による馬耕機が取り入れられると,一挙に普及した。そして明治37年には,県内の馬耕普及率が75.6%にもなっている。

 加えて,江戸時代から越中国は,良質の種モミ産地として知られていたが,明治期になると,様々な品種改良が行われた。

 さらに,富山県で,わが国で初めて耐雪耐寒性レンゲの花種が開発された。

 レンゲは,地味を豊かにする肥料として栽培されていたが,温暖乾田地帯植物のため,寒冷積雪地帯での栽培は不適とされていた。それが明治期,富山県の上坂伝次らによって開発された。以降,生産量が増え続け,全国各地に移出されるようになった。

 薬売りたちは,こうした優れた種モミを全国各地に,開発されたレンゲの花種を東北地方に運んだ。また,顧客の地域で,農業先進県・富山の農業技術を駆使して貢献したのである。

4.兼業を生かした薬売り

 兼業売薬であるだけに,旅先から戻れば農作業が待ち受けていた。しかし,来年に備えての商いの準備をおろそかにしてはならぬ。

 まず,顧客台帳(懸場帳)を整理する。それが終わると,薬の製剤に取りかかる。

 薬の製剤といっても,顧客の家の一人ひとりの健康状態から生活環境に至るまで,じかに接して得た情報をもとに,頭痛薬から腹痛薬,かぜひき薬,傷薬と,あらゆる病気の薬を用意しておかなければならなかった。幾種類かは仲間と一緒に造るものの,顧客の家の人たちの健康状態を見計らっての配置が大事な仕事であった。

 これらが終わると,顧客に約束した種モミやレンゲの花種を用意しなければならない。種モミといっても,土地の気候風土や肥料条件を考えて,それぞれ適切な品種を選ばなければならなかった。

 このほかにも,絵紙(売薬版画)を渡すときに説明するために芝居の観劇をする。浪曲や浄瑠璃,小謡などの練習に,帳簿記入のための毛筆練習もあった。

 忙しい農作業の合間を縫って,これらの準備をこなさなければならず,休む暇とてない日々であった。

 これらを見事にこなして両立させたのである。

 こうして,顧客の地域一帯に種モミが配られ,農業指導を行ったことで生産が向上し,富山の種モミの優れていることが知られるようになった。各地から富山県に,種モミの注文が相ついだ。以後,富山県は全国の種モミの7,8割を生産する「種モミ王国」となり,今日に及んでいる。

 レンゲの花種も,昭和20年代までは「レンゲの移出県」として活躍していた。

 また,薬売りたちは,富山の農業先進技術を各地に広めただけでなく,他県の先進的農法を富山に導入することにも,一役買っている。

 その一つが犁耕技術の導入であろう。北九州を廻商していた薬売りが犁耕農法に目をとめ,富山に戻ると,それを導入した。これが近隣から県内各地に広がり,県も推進し,一挙に普及した。

 「日本農業発達史」に,「東日本で,孤立的に馬耕が普及していることは,了解に苦しむ」という表現がなされているが,薬売りたちが導入したことを考えると納得できる。

 富山県を「種モミ王国」にし,農業先進県に導いただけでなく,全国各地の農業生産の向上に貢献した薬売りたち。その果たした役割は大きい。

 「商売そっちのけで親身になって助けていただいた。だから頼りにし,尊敬していた。」

 いずれの土地でも耳にした顧客たちの言葉。310年,何代にもわたって続けられてきた商いの要因と底力を感じさせられる。